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【世界の時間と韓国の時間: Japan and Japanese】

 編集者の解説 : 中央日報 2006.1.1(日) からの転載です。韓国の国家目標は「歴史の清算」ではなく、「未来の開拓」でなければいけないと主張しております。ひるがえって、今日の日本に国家目標は存在するのでしょうか。存在しないとすれば、不要なのでしょうか(コメント 上埜 進  2006.1.1)。 

2006年、世界の時間と韓国の時間

時間は、場所とともに人間活動の主な舞台だ。個人が時間のなかで生活を営むように、国家と民族も時間という舞台の上で歴史を創り上げもし、また滅びもする。ある人の生涯が、与えられた時間をどのように生きてきたかで評価されるように、ある国家、ある民族の運命も、時間という原料でどのような歴史を作ってきたかによって決定づけられる。

 100年前、北東アジア3国の韓国・中国・日本の運命も、それぞれの国家が生きていた時間の性格によって決定付けられた。韓国と中国が、前近代・半封建の末期にしがみついていたなか、日本は独り近代の入り口を乗り越えた。韓国と中国が北東アジアという「辺境の時間」のなかに閉じこめられたとすれば、日本は「世界史の標準時間」のなかに足を踏み入れたのだ。この差が、3国の運命を植民地・半植民地・殖民国家に分けてしまった。

 1945年の独立以降、大韓民国が歩んできた60年は、われわれが100年前に逃してしまった歴史の入口を取り戻して、急いで近代を卒業し、「世界史の標準時間」のなかに駆け込もうとする必死の辛抱ともがきの歴史だった。

 1960年代、われわれの国民所得が60ドルそこそこだった事実は、私たちの国民全体が当時も近代以前、しかも世界最貧国という「惨めな前近代」のなかに閉じこめられていたという意味だ。大韓民国の歴史は40年という短い歳月のなかで、その「惨めな前近代」を蹴飛ばして国民所得1万5000ドル、世界10大通商国家に仲間入りして、「辺境の時間」を生きていた私たちの運命を「世界史の標準時間」を生きられるよう切り替えた。

 この大韓民国の歴史を「正義が敗れて日和見主義がはびこった歴史」と卑下する発言に世界が驚く理由は、全世界が大韓民国が歩んできた道を目撃した証人であるためだ。大韓民国の歴史が、傷もなく完璧かつ汚れのない歴史だったと主張するわけではない。世界史の高い丘から見下ろせば、やや迷ったとはいえ、大きな成功を収めた教科書となるという意味だ。

 われわれだけが起きあがったわけではない。50年間の半殖民地状態に続いて30年間の共産独裁のなかで、飢餓と飢饉という前近代的用語がつきまとっていた13億人の人口を抱える中国も大きく立ち上がった。韓国が日本の100年の歴史を40年に縮めたとすれば、中国は韓国の40年の歴史を20年に縮めながら走りつづけている。

 中国は「韜光養晦(光を隠して密かに力をつける)」というスローガンの下で縮こまっていたが、「和平堀起(平和に力強く立ち上がる)」の姿勢で世界を見回したかと思うと、今や「有所作為(必要な場合は積極的に行動する)」に姿を変えてきた。

 1億2000万人の人口を抱え、世界第2の経済大国の日本を未来に導く米日同盟強化論と「普通国家論」も、経済力に相応する軍事力と政治的影響力を持とうという国家的野心の現れだ。

 100年前、時代に後れを取った「辺境の時間」のなかから抜け出し、競争をしてきた北東アジア3国は、今や未来という世界史のヒノキ舞台の上でまた競争している。

 中国は米国と対等に競争する一方共存する世界戦略を立てているうえ、 日本は米国との合従連衡で、中国の地域覇権主義を押えつけようとする道を選んだ。世界の覇権国家米国は、日本を味方にして中国に対して牽制と協力の両面戦略を駆使している。

 これらの3国の戦略の共通点は、彼らの目の前には大韓民国は存在しないという点だ。彼らが韓国に触れるのは、「惨めな前近代」の足かせを引きずりながら、核兵器という現代の災いを抱えて喘いでいる北朝鮮に言及するときだけだ。

 前近代や近代、現代を時間の溶鉱炉に一緒に入れて溶かし、21世紀の世界史のヒノキ舞台に足を踏み入れたと自負していた大韓民国が、今は彼らの視野から消えているのだ。わずか15年前、最高リーダーのケ小平の口から「外で、韓国から学べ」といった言葉さえ聞かれた中国の目にも、韓国は見えていないということは衝撃極まりない。

 ここ数年間のことだ。「他人が自分を認めないことを心配せず、自分の足りなさを痛ましく思え(不患人之不己知 患己無能也)」といったことわざを思い浮かべる。ここ数年間に韓国が、北東アジア3国が抜きつ抜かれつの競争を繰り広げた未来という時間の舞台を自ら一人で歩きし、過去の時間のなかに後退してしまったためだ。

 先頭に立ってこのような事態を招いた大韓民国の為政者たちも、「過去を立て直してこそ、未来を立て直すことができる」という命題の是非は論外にして、この事実だけは否定することができないだろう。

 しかし世界歴史のどこにも、過去をきちんと立て直すことで現在と未来を先取りした国は存在しない。世界の中心国家は、現在と未来を開拓することで、過去の歴史にも栄光の服を着せた国々だ。

 「世界史の標準時間」が未来と21世紀に焦点が合わせられた2006年、大韓民国の最大の国家プロジェクトが、「過去の歴史の清算」であるだけに、われわれが生きているこの地の時間を正確に示す時計の針は存在しない。われわれは今、「現在が過去であり、過去が現在だ」という、とんでもない逆説が堂々とはびこる地で生きているのだ。

 2006年、われわれが目をしっかり見開いて、大韓民国の内と外を見守らなければならない理由もここにある。もちろん、今年われわれが目を凝らして見極めるべきものは過去史の問題だけではない。 5月の地方選挙を見守る目も、われわれを未来という「世界史の標準時間」に導いてくれる勢力がどちらであり、われわれの足を過去へと引っ張る勢力がどちらなのかを見抜く力を持たなければならない。

 最高裁判所と憲法裁判所の人員の過半数を新たに変える司法革命の過程も同じだ。任期満了を1年後に控えている政権が、任期6年の最高裁判事と憲法裁判官を政権のイデオロギーによって牛耳るように放っておくことは、憲法上の寿命を迎えた政権の寿命を違法に延ばしたも同然なためだ。

 大韓民国の繁栄を裏付けてきた市場経済の枠組みが、世界史の骨董品に過ぎない“守旧的左派”によって命取りの重傷を負わないために守り抜くことも国民の役割だ。

 傷だらけの韓米同盟は、来年には、いったいどこへ向かうのか。これもまた、覚めた目で確認しなくてはならない。北朝鮮の核開発問題の解決過程だけがなく、ある日突然われわれの前に迫ってくるかも知れない統一と統一以降の時代に、われわれに必要な同盟と同盟国家はどちらであり、どちらになるべきかという戦略的判断で考え、臨まねばならないというのだ。

 われわれが是が非でも避けてはならないもう一つの使命は、21世紀の明るい陽射しのなかで、未だ前近代の足かせにはめられて喘いでいる北朝鮮の同胞を、「世界史の標準時間」のなかに導くことだ。

 結局、今年一年間に大韓民国とわれわれ国民に与えられた課題の成否は、大韓民国を作って、育んできた先の世代から譲り受けた未来という「21世紀の標準時間」を、過去という「辺境の時間」に逆行させようとする勢力の脅威からどうやって守り抜くかにかかっている。

 この闘いの勝敗によって、北東アジア3国のなかで韓国が100年前と同じくまた「辺境の時間」のなかに転んで落ちてしまうのか、それとも「世界史の標準時間」と「世界のヒノキ舞台」で国民の力と考えを未来に集め、再跳躍できるのかが決まることだろう。